函館本線・小樽の鉄道旅・観光・地理・歴史と、官営幌内鉄道の歴史などを、初心者の方にもわかりやすく解説してゆきます!
余市からは、小樽方面へ
余市駅(北海道余市郡余市町)を過ぎると、ここから日本海側に沿って、小樽方面に進みます。
そして、
- 蘭島駅(北海道小樽市)
- 塩屋駅(北海道小樽市)
を過ぎて、小樽駅に至ります。

蘭島駅(北海道小樽市)

塩谷駅(北海道小樽市)
北海道新幹線・札幌延伸により、廃止予定の区間
この区間は、2030年の北海道新幹線・札幌延伸により、廃止される予定となっています。
その後(廃止された後)は、余市~小樽間はバスで運行される予定になります。
しかし余市はかなりの人口ある町であり、余市から小樽への通学・通勤需要があるため、鉄道の廃止を撤回してほしいという動きが少なからずあります。
やがて、小樽へ到着
やがて、小樽駅(北海道小樽市)に到着します。

小樽駅(北海道小樽市)
ここで、かなりの街(都会)に到着しました。
ここまではずっと真っ白な山岳地帯や真っ白な原野を通ってきましたからね。
札幌に近い都市圏に、ようやくやってきたという雰囲気になります。

小樽駅より(北海道小樽市)
小樽市はかなりの街であるにも関わらず、所属する後志総合振興局の振興局所在地ではありませんので、勘違いしないように注意です。
「振興局」とは?
振興局とは、北海道を細かいエリアに分けて管轄する行政機関です。
というのも、北海道は広すぎて、道庁所在地の札幌市だけでは面倒みきれないため、振興局が管理する細かい(全部で14の)エリアに分かれているのですね。
小樽市は「後志総合振興局」の管内に存在
小樽市は後志総合振興局の管内に含まれます。
その中心地である振興局が人口最多の小樽市ではなく、実は倶知安町にあるわけです。
ここは勘違いしないように気をつけましょう。
というか小樽市は札幌市に近いため、札幌市と同じ石狩振興局の管内だと勘違いしそうです。
こちらも勘違いしないよう要注意です。
小樽の「手宮線」 北海道最初の鉄道のあと
小樽には、明治時代に後述する幌内炭鉱から掘り出された石炭を運んでいた、手宮線がありました。
現在でも手宮線跡が、小樽市のまちなかに残っています。

手宮線跡(北海道小樽市)
北海道には、たくさんの石炭が眠っていた
なぜ大量の石炭を運んでいたのかというと、明治時代の日本は、北海道を強く豊かな地域をするぞ!という雰囲気があって、北海道を開拓し、大量のエネルギーが必要だったからです。
明治時代になって、北海道には石炭をはじめとするたくさんの資源が眠っていることがわかり、多くの人々が北海道に移住して、炭鉱でたくさんの石炭を掘り出していました。
そうした人々を乗せるにも、石炭などの資源を運ぶにも、鉄道とそれを動かすための石炭は必須だったのです。
明治時代になったばかりの日本は(約200年以上に及んだ鎖国のために)、欧米諸国から約年100近くも遅れをとっていた後進国であり、そうした欧米諸国に追い付け追いこせという雰囲気の時代でした。
ニシンや石炭などの運搬で栄えてきた小樽
そういった背景から、鉄道でニシンや石炭などの貴重な資源を運んできたのが、小樽の港になります。
ニシンとは、春になるとよく採れる魚になります。
ニシンは寒い海にしか住まない魚なので、北海道はまさにニシンの漁場なのです。
ではなぜニシンは敢えて寒い海にしか住まないのかというと、恐らくですが天敵から逃れるため、などの理由が考えられます。
「お雇い外国人」の力で作られた、官営幌内鉄道

手宮線跡(北海道小樽市)
手宮線は、北海道最初の鉄道とも言われています。
それは官営幌内鉄道の一部です。
官営とは、いわば国が主体の運営ということですね。
つまり国をあげて資金を投入していくので、相当な気合いの入れようだったというわけですね。
幌内とは、北海道の真ん中あたりにある地名で、札幌の東・岩見沢のさらに東に位置する地域です。
明治時代に幌内地域でたくさんの石炭が掘り出せる炭鉱が見つかったので、幌内炭鉱で掘り出した石炭を鉄道でたくさん運んでやろうというのが、当時の日本の北海道開拓の目的の一つでした。
かつて「黒いダイヤモンド」と呼ばれた石炭
石炭は現在でいう「ガソリン」であり、非常によく燃えてくれてエネルギー効率が良く、とにかく売れて色んな業界が買ってくれたため、「黒いダイヤモンド」とも呼ばれていました。
鉄道を走らせるにも、蒸気船も動かすにも、何を動かすにも明治時代には石炭が重要でした。
いざ戦争になったときも、兵士や食糧を運ぶのも当時はみな鉄道だったので、鉄道の動力源・エネルギーとなる石炭を多く持っている国が勝つのは自明でした。
日本で活躍した「お雇い外国人」
明治時代の鉄道建設には、外国から「お雇い外国人」を招いて、作っていったわけです。
「お雇い外国人」とは、まだ欧米の技術から取り残されていた日本が、お金を払って技術指導を受けるために雇った外国人のことです。
その時のお雇い外国人の1人に、ライマン(ベンジャミン・スミス・ライマン、Benjamin Smith Lyman)という方がいました。
ライマンの活躍で発展した、官営幌内鉄道
当時の日本人はライマンら「お雇い外国人」の意見をしっかり聞き、鉄道の線路建設に関する技術などを教わりながら、なんとか線路を建設してゆきました。
なぜなら、明治時代の日本人にとっては、1872年に開通したばかりの鉄道はまだ新しすぎる技術であり、鉄道先進国(1820年代には既に鉄道があった)の欧米のサポート無しではまだまだ鉄道建設の技術が弱かったからです。
江戸時代にずっと鎖国していた日本は、海外の最新技術から取り残されている状態だったため、まだ後進国だったわけです。
「お雇い外国人」の指導によって線路の測量を行い、これにより安全で建設コストが安く済むルートを考えていったのです。
これを線路建設の前にしっかりやっていないと、線路が崩れて危険な事故につながったり、線路建設の難易度が上がってコストが上がり、(営業開始しても)元が取れなくなって赤字になったりするためです。
明治時代は、幌内炭鉱の石炭をいかに運ぶかが重要だった
最初は、幌内炭鉱のある空知地方から、まだ鉄道が開通していない石狩川を使った水運に頼るのがいいと考えられました。
石狩川は、札幌市の北東において日本海に注ぐため、
- その海(日本海)を通って、
- 船で石炭を小樽へ運び、
- さらに小樽で大きな船に積み替えて、
- 日本全国へ石炭を送る
ということを、(当初は)行ったわけです。
最初は、この方がコスト削減となるため、ライマンの方式を採用することにしました。
しかし後に、
- 札幌~岩見沢~幌内
までの線路も出来たため、やがて水運から、オール貨物列車の時代となりました(そうなると、今度は水運が衰退する)。
こうして、北海道最初の鉄道となる官営幌内鉄道は、着々と進んでいったのでした。
もちろん、それは現在の函館本線の原型となっています。
一方、岩見沢~幌内までの「幌内線」は、1987年に廃止されています。
詳しくは、以下の記事をご覧ください。

小樽の発展と衰退 そして北海道屈指の観光都市へ
明治時代に、札幌が北海道の中心(開拓・発展のための拠点)となると、小樽は北海道の入口・玄関口の一つとして発展してきた歴史があります。
その時、近江商人の活躍があったとされます。
近江商人とは?小樽で活躍した商人
近江商人とは、現在の滋賀県を中心に活躍していたヤリ手の商人です。
こうした商人たちは、船で荷物を運んで各地に売りさばくという行為を得意としていたのでした。
そのため、明治時代に急速に発展しつつあった(人口が急増したことで商品を買ってくれる客が多かった)小樽においても、これを行った(儲かった)というわけですね。
「北前船」の活躍 近江商人やたくさんの商品を載せてきた
江戸時代は、貨物列車や高速トラックなどはありませんでしたから、日本海を大きく西に廻るルートの船によって荷物(商品)を運んでいました。
これを北前船といいます。
小樽も、その北前船が寄って来て停泊するという重要な港でした。
戦後のエネルギー革命により、石炭輸送が衰退
戦後になると、エネルギーが石炭から石油に変わってしまい、炭鉱がだんだんと閉鎖してゆき、石炭を運ぶ需要が無くなってきました。
そのため、港湾や石炭が衰退すると、小樽の街も衰退していくこととなりました。
「観光都市」へのシフト
しかし、これだと小樽の人々は食っていけなくなるため、それまで町にあった「運河」を埋め立てずに、観光用として取り残し、保存・維持することで観光資源を確保し、観光都市として発展してきた歴史があります。
これによって、観光客の皆さんに街で買い物・飲食・宿泊してもらうことで街に金を落としてもらい、市民の生活が立ち行くというスタイル(観光都市)に変貌したというわけです。
こうした観光都市へのシフト・路線変更は、小樽に限った話ではなく、函館や全国他の都市でも行われています。
観光客の誘致や、移住者の誘致は、どの地方都市にとっても重要課題・重要政策になっています。
小樽を出て、札幌方面へ
次回は、小樽駅を出て、札幌方面へ向かいます。
今回はここまでです。
最後まで読んでくださってありがとうございます!
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